唐ゼミ☆について
檄文(げきぶん)
ニートもフリーターも、まだまだ生ぬるい。
俺たちはもっと先まで行く!
中野敦之
ある時、ひとりの観客から、「拍手なんてサルでもするわけだから、俺は簡単には拍手するまいと心に決めていた。でも気付いたらいつのまにか拍手していた」と唐ゼミ☆の舞台を褒めてもらったことがある。
悪いけれど、まったく嬉しくなかった。
何故か?
その、「サルも興奮する舞台」のことが気になったからである。
〈時代に対するメッセージに満ちた〉演劇、〈現代社会に鋭く切り込む〉演劇にいつも辟易してきた私は、それ以来、尻尾をはやしたアニマルたちの興奮する舞台を目指そうと思った。
近頃流行の「下流社会」も、今こそニンゲンがアニマルのステージに降り立つための入り口なのではないか。ニートやフリーターやひきこもり、現代社会にきっぱり拒絶を突きつけた彼らこそ、今もっとも健常な人々であると私は考えてきた。だが、唐ゼミ☆の劇は、彼らをさらなる「低み」へと導く通底器でなければならない。所詮はニンゲン界のルールに過ぎない経済原理を超えて、そこから遁走し、掘って、抉って、下降し、潜行し尽くす。そのうち彼らの尻には、しなやかな尻尾がはえていることだろう。そこには唐ゼミ☆の目指すアニマルの愉楽が広がっているはずだ。
唐十郎=日本のシェイクスピア説に、私は異を唱えたい。
彼のそばに居て感じるのは、シェイスクピアではなくむしろホメーロスだ。真っ暗闇の洞窟で、デーモンの囁きに耳を澄まし続けた盲目の詩人ホメーロス。
唐十郎の言葉には、自意識に閉じ込められた近代的作家の枠を遥かに超えた匂いがする。自らがものしたはずの言葉の不可解さに苦悶する唐十郎。あの透きとおったガラスのような眼球。観客を意識の向こう側へと触発し続ける言葉。それは最早、単なる作家と呼ばれるレベルの技ではない。降霊術師の手つきそのものだ!
観客をいつも無意識の混濁状態へ。まさにニンゲンを前向きに退行させるための言葉。唐ゼミ☆はいつもそれと向かい合ってきた。
そしてテント。
テントとは、「反劇場」などという使い古された形容で済まされるものではない。暑さや寒さ、天井を叩く雨音や壁面に打ちつける風。あの観客どうしの密着と人いきれから生じるテント内の「納豆状態」。天幕の下にいる時の胸騒ぎは、ニンゲンを遥か四本足で歩いていた頃の記憶へと誘っていく。まさに青テントに集まる観客とは、あの大洪水をのりきったノアの箱船の乗組員であり、選ばれしアニマルたちの航海仲間なのだ。
テント、唐十郎の言葉、下流が溢れだした現代。今回の『鐵假面』で、唐ゼミ☆はニンゲンが辿り着くことのできる「下流」の底をぶち割って、すべての「〜のために」から解き放たれたアニマル・ステージの「低み」にまでたどりつくつもりだ。歴史も教科書ももたないアニマルたちの演劇に古いも新しいもない。そこには「自由」という名の世界最後の「秘境」があるだけだ。
この夏、青テントは都会の最も俗な場所に立つ。上演する側も観客も、それはまさに「超下流」をさらに下向きに突き抜けたアニマルたちの祭典だ。
さあ、尻尾をはやしてここに来い!!
